スポーツイラストレーターT.ANDOHの「OUTSIDER’s ReCALL」(132)甲子園球場100年の歴史に迫る!その2
2025年3月11日(イラスト・文/T.ANDOH)
こんにちは!スポーツイラストレーターのT.ANDOHです。
甲子園球場の歴史を辿るシリーズ第2弾。(第1弾はこちら)
旧鳴尾球場を複合スポーツ施設に展開し、夏の甲子園の前身となる全日本中学野球選手権の開催を実現した阪神電鉄と三崎省三氏。
競馬場を改造して2面の野球場を作っちゃったというその発想とスケールには圧倒されましたが、グラウンドに面したスタンドは小さく、一方で競馬場のスタンドではグラウンドに遠すぎるなどの問題も起き、野球専用のグラウンドを作る要望が主催者側からも上がってきました。
そんな時代背景も後押しをした甲子園球場建設ですが、三崎氏にとって甲子園球場を作る構想は、遡ることアメリカ留学時代からあったのです…!
第2回はそんな三崎氏の思いと、甲子園でアメフトが始まったこと。そして実際にアメフトの試合が行われた「甲子園南運動場」と呼ばれた「第2の甲子園」についてお話しします。
まず、甲子園球場の大きな特徴をひとつ取り上げます。
昔はラッキーゾーンがあった外野グラウンド。扇子の形の野球グラウンドの中でも、やけに両翼が広い形状をしているのが甲子園球場の特徴で、ラッキーゾーンとは、その深まった両翼のアールよりせり出してフェンスを設けて、他の球場並みに距離を抑えたものでした。
ではなぜ、甲子園球場はこんな形をしているのか。
昔から「甲子園ボウル」を見ている方は、かつてはアメフトのフィールドを外野の横一面に広げていたことをご存知かと思います。
そうです!
甲子園球場は最初から「野球」と並行して「フットボール」ができるグラウンドとしても計画されていたんです!
甲子園球場は開場当初「甲子園大運動場」と呼ばれていたことは有名な話です。
「大運動場」と称したことも、ここが”野球専用グラウンド”ではなかったということを表しています。
その後、1926年に東京に神宮球場ができ、関西でも藤井寺球場をはじめ野球場の建設が相次ぐと、甲子園球場も1929年に野球場として改修をされていきます。
神宮における関東の大学野球、関西では中等野球(のちの高校野球)。
という図式が、この頃から出来上がってきたんですね。
かくして1924年に開業した「甲子園大運動場」は、8月1日の完成に次いで13日にはさっそく中等野球大会を開催。
ここから「夏の甲子園」の歴史が始まるわけですが、三崎氏が抱いていたもう一つの構想である「フットボールの全国大会」開催も、翌年には実現します。
朝日新聞が「野球」の全国大会を開催したことに対抗して、毎日新聞が「フットボール」の全国大会を1918年から始めています。
「フットボール」とあえてにごしているんですが、この当時はサッカーもラグビーも一緒になっていました。
どちらも競技人口が少なくて、ラグビーとサッカーを並行開催していたんですね。
この「日本フットボール優勝大会」もまた豊中グラウンドから始まり、1925年には甲子園大運動場での開催を実現します。
三崎氏にとっては野球とあわせて甲子園で開催したかった「フットボール」。
しかし「日本フットボール優勝大会」を実際に視察した三崎氏は驚きます。
じつは、アメリカ留学で三崎氏が見た「フットボール」とは、ラグビーでもサッカーでもなく「アメフト」だったんです!!
それは、三崎氏が留学先で書いた日記にも記されていました。
屈強な男たちがボールをめぐって取っ組み合い、怪我をして担架で運ばれる選手までをこの目で見た三崎氏は「とんでもないスポーツをやっている」と思ったことでしょう。
同時に、
「日本人もこれくらい身体を鍛えなければ欧米には勝てん」
そう思って「日本人の運動啓発と、スポーツ振興の拠点を作ろう」と発案したことこそ、甲子園球場建設の原点となりました。
「いつかアメフトを甲子園でもやりたい」
三崎氏がそんな思いを抱きつつ甲子園でフットボールの大会が開催されると、さらにそこに注目した一人の皇族が声を上げました。
日本ラグビーの親と言われた秩父宮殿下。
東京の秩父宮競技場の名前の由来となった秩父宮殿下のお思召が、フットボール競技場の建設を後押しします。
1929年には近鉄が花園ラグビー場を開場させると、甲子園にもフットボールの専用競技場を作る計画が進みます。
そして同年には甲子園大運動場を野球専用の「甲子園球場」に改修し、「甲子園南運動場」というもう一つの「甲子園」が誕生しました!
鳴尾球場に近い海岸線近くに、長方形のフィールドと陸上トラックが取り囲んだ、収容人数2万人のこれまた当時としては巨大なスタジアムができたんです。
いまは何も残っていません。
甲子園筋を南下した団地が立ち並ぶ地域ですが、甲子園球場から歩いて10分程度の場所でした。
阪神電鉄は甲子園筋をメインストリートとして、この道中にも大規模なテニスコートを作るなどして、一帯のレジャーランド化を推進したのでした。
しかし、三崎省三氏はこの南運動場でアメフトの試合を見ることなく、この年の2月に亡くなっています。
アメフトが日本で試合を行われるのは、この5年後のことでした…。
1934年に東京でアメリカンフットボールの関東連盟が立ち上がると、翌1935年にいよいよ甲子園南運動場でもアメフトの早稲田大学対明治大学戦が行われます!
それは、阪神タイガース(当時は、大阪タイガース)が誕生する1年前。
三崎氏の思いはしっかりと受け継がれたんですね。
さらに同年には南カリフォルニア大学対明治大学戦が開催され、アメフトの国際大会としては日本初の試合が、この甲子園南運動場で開催されたのです。
それ以降アメフトも徐々に国内に浸透し、関西でも関大・同志社そして関学にアメフト部が創設され、東西対抗などの交流戦が行われるようになりました。
その後、鳴尾浜周辺には夜間照明まで設置された大型プールをはじめ、動物園や遊園地が立ち並ぶ、初代「阪神パーク」も開業。
甲子園浜をあおぐ海辺のロケーションも利用して、多くのレジャー施設が甲子園周辺にできたのでした。
戦前のお話ですよ!
阪神電鉄が社を挙げて開発した甲子園球場と周辺の施設の数々でしたが、まもなく戦争の時代が訪れると、一帯の施設は軍に接収され、運命を共にします。
甲子園球場の接収は終戦年の1945年だけでしたが、一帯は鳴尾浜競馬場の跡地もろとも軍の滑走路になるなど景色は一変。
甲子園南運動場はこの時に消滅したのでした。
そして1945年に終戦を迎えるのですが、終戦してすぐの10月には甲子園球場は米軍に接収されてしまいます。
しかし、甲子園球場が広大なグラウンドだったことが幸いしたのか、米軍接収後も球場のグラウンドは進駐軍の体育学校として使われて、さまざまなスポーツが行われました。
そして、
そのとき米軍内でも一番人気のあったスポーツが、アメフトだったんです!!
アメフトは軍内でも人気スポーツとしてさまざまな部隊の対抗戦が行われ、当時の鳴尾村(甲子園周辺)でイチゴの栽培が盛んだったことから、甲子園球場で開催するアメフトの対抗戦を「ストロベリーボウル」と名付けられるほど親しまれました。
さらに米軍は、なんと近隣の大学でアメフト経験者の日本人の学生に向けて招待状を送ります。
そのうちの一人、関西学院大学の井床国夫さんの手元にも米軍対抗戦のに招待する招待状が送られました。
この井床国夫さんは、1941年に創設された関学ファイターズの初代キャプテンだった方。
井床さんらが中心となり、関学アメフト部の再興にも動き出していた時代でした。
まぁ、それだけの方ですから、米軍もすぐにリストアップできたことだと思いますが、いきなり米軍から手紙を受け取った井床さんは、相当驚いたことだったでしょう。
この一件は関西でのアメフト復興と甲子園でのスポーツイベント復活の気運となり、1947年に甲子園球場の接収が解除されると、直後の4月13日には第1回の「甲子園ボウル」が開催!
夏の中等野球よりも4カ月早く、先に開催されたのは、じつは甲子園ボウルの方だったんです!!
スポーツに国境はない。
米軍がスポーツに励む日本人にも敬意を持ってくれたことが、甲子園の復活とアメフトの復興にもつながったんですね。
三崎省三氏がアメリカでアメフトを見て、アメフト開催に憧れたことが、甲子園建設にもつながった。
そして戦後の先の見えない時代に、甲子園復興の鍵となったのも「アメフト」だったと言って過言ではないと思います。
ゆえに、甲子園にとってアメフトは野球とならぶ重要な競技であって、戦後の再会時には「野球」と並んで「アメフト」も甲子園で開催することとなり、それが現在まで続いています。
「甲子園ボウル」は今年80回の記念大会となります。
アメフトにとっても「聖地」である甲子園は、これからも野球やアメフトに夢を追う若い力によって継承され、多くのファンが足を運ぶ場所で居続けてほしいですね。
戦争という時代をも乗り越えてきた甲子園球場は、100年の歴史をもって周辺の街並みをも変化させてきました。
そんな甲子園球場がある西宮市も、今年で市制100周年を迎えます。
こんな歴史が詰まっていること、そしてこれからも歴史を刻んでいくところだということを、ぜひ、たくさんのファンの心にも刻んでほしいと思います。
来週には春のセンバツが始まり、プロ野球も開幕します。
甲子園に行かれた際は、そんな歴史も感じつつ周辺を散策するのもいかがでしょうか。
そして!
せっかくなので冬の「甲子園ボウル」に向けて、あなたもアメフト見てみませんか(笑)。
と、アメフトの宣伝もして、この甲子園探訪記を締めくくりたいと思います。
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スポーツイラストレーターT.ANDOH
おもにスポーツを題材にしたイラストやデザインの創作で、スポーツ界の活性に寄与した活動を展開中。 |
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