スポーツイラストレーターT.ANDOHの「OUTSIDER’s ReCALL」(130)つば九郎に寄せて~島野修さんとマスコット奮闘の歴史

2025年2月26日(イラスト・文/T.ANDOH)

こんにちは!スポーツイラストレーターのT.ANDOHです。
2月19日に東京ヤクルトのマスコット「つば九郎を支えてきた社員スタッフが永眠いたしました。」と球団発表があり、プロ野球界そしてファンに間で大きな衝撃となってます。

つば九郎を唯一無二のキャラクターとして確立させた担当スタッフの方の努力と長年の激務ははかり知れないもの。
真夏でも真冬でもずっと、つば九郎の”命”となってこられていたんですからね。
担当の方が亡くなられて、キャラクター自体の存続にも大きな影響を及ぼす…、
こんなマスコットキャラクター、なかなかいないです。

そんなマスコットと担当スタッフが”一体”となって、マスコットキャラクターという存在を確立させた功労者が、オリックスにもいらっしゃいました。
ブレービー、そしてネッピーと、島野修さん。
担当スタッフ… いやもう「中の人」として確立していた島野さん。
ブレービーは阪急ブレーブスのキャラクターであり、オリックス・ブルーウェーブ時代のマスコットとして活躍したのがネッピー。

僕は世代的にネッピーとしか触れ合っていませんが、読者の皆さんにはブレービーを知っている方も多いのではと思います。
今日は、そんなネッピーの思い出と、マスコットキャラクターという文化を根付かせてくれた島野さんの半生をお話しましょう。

島野修さん
もともとは読売巨人軍の選手であり、阪急ブレーブスでもプレーをしたピッチャーでした。
神奈川県の武相高校からドラフトで指名されるのですが、そのときのドラフトは、島野さんともう一人の野球選手の運命を大きく変えるものとなりました。

1968年のドラフト会議。
島野修さんは巨人にドラフト1位で指名されました。
この年は、田淵幸一さん、星野仙一さん、山本浩二さんという六大学野球の名選手がドラフトの注目を浴びていて、巨人も最初は田淵さんをドラフト1位で指名を目指し、田淵さんが他球団に指名された場合は星野さんをドラフトで指名するつもりでした。
ところが、ドラフトの大本命だった田淵選手が先に阪神に指名されると、巨人は急遽方針を転換し、育成目的で高校生だった島野さんを指名。
この指名劇にショックを受けたのが、星野仙一さん。

星野さんは疑いと困惑のなか、中日ドラゴンズに指名を受けて入団しました。
この時の経緯が「打倒巨人」を掲げた”燃える男”星野仙一を作り上げます。

一方の島野さんはめでたく巨人に入団したのですが、高校時代にすでに肩を酷使していたことが災いして怪我に苦しみながら目立った活躍はできず、入団8年目に阪急ブレーブスにトレード。
阪急では1軍登板はなく、3年後にはついに引退をされてしまいます。

引退後も島野さんは球団スタッフとして働きましたが、1980年のオフに転機を迎えます。
「来年から球団マスコットを作るのですが、そのお仕事をしませんか」
明るい性格で、宴会でも目立っていた島野さんの人となりを見ていた球団が、マスコットの”中の人”として島野さんに白羽の矢を立てたんです。
かくして翌1981年より、マスコットキャラクターのブレービーが誕生!
当時のプロ野球の中でもマスコットの先駆け的な存在となりました。

アメリカのメジャーリーグで活躍するマスコットキャラクターを日本でも作ろうと、阪急ブレーブスがアメリカ視察までして誕生したのがブレービー。
だから、チームのイメージとはかけ離れた、アメコミキャラ風のあの子になったんですね。
東京ディズニーランドの開園が2年後の1983年なので、ミッキーマウスのマスコットだって皆さん触れていない時代。
スーツアクターという職種も確立していない時代だったと思います。

しかも選手としてクビとなり、マスコットに入るってことに島野さんは最初は抵抗もあったとか。
ブレービーに入ってからも、「元ドラフト1位選手の転落の末路」のような…
ネガティブな方向でメディアに取り上げられることもあったそうです。

今のマスコットではあり得ない話ですが、島野さんは唯一“中身としてバレて”いる…
これもマスコットに対する意識が薄かった草創期ならではの話なのでしょうか。
しかし、ブレービーはすぐにチームの人気者になります。
周囲の声も揺らぐ思いも、マスコットに触れ合った子どもたちの笑顔や励ましの声が勝り、マスコットを演じ切ることができたそうですね。

実際に島野さんもメジャーリーグのマスコットをとても研究したそうです。
場を盛り上げるのも、ときにバカなことがやれるのも、試合の邪魔にならずに、むしろ野球を盛り上げるために動かなければいけない。
これは、野球のことが好きで、野球をよく知っている人じゃないとつとまらない。
中身として知られているからこそ、野球場が楽しい場所で、子どもたちに夢を与える仕事だと使命感を持って奮闘されたのかもしれません。

マスコットがただの盛り上げ役ではなく、もう一人の選手として、チームの一員として活躍しているマスコットが確立されたのは、裏で島野さんのような方達が葛藤と努力を積み重ねたことも、ファンとしては忘れたくないですね。


島野さんは、球団がブルーウェーブになり、ブレービーからネッピーになった後も中に入り続けました。
僕も持っています! ネッピーのサイン!!
マスコットもサインをする。
これもまたセンセーショナルでしたし、文字を書くマスコットの第一号なのでは?(間違っていたらすみません)

あと、島野さんが元プロ野球選手だった分、ネッピーもデカかった印象です。
ブレービーは架空のキャラクターなので大きくても違和感はなかったですが、ネッピーは人間タイプのキャラクターなので迫力がありました(笑)。

そんな島野さんのネッピーでしたが、1999年に「リプシー」という相棒が登場した時にマスコットがリニューアル。
そのタイミングで島野さんは「中の人」を引退されました。
年齢のことと、持病の悪化(糖尿病だったそう)が原因だったと聞いています。
その後も、球団の顔としてイベントにも顔を出されていたのはありましたが、持病の悪化が伴い、2010年に島野さんは59歳の若さでお亡くなりになられました。
奇しくも、2010年シーズンをもってネッピーも球団マスコットを引退。
2代目ネッピーも自分のキャラをしっかりと確立できていましたが、島野さんとともにネッピーの時代は終わり、現在のブル・ベルにバトンタッチします。

やっぱり
中の人ってマスコットとは一体なのかもしれません。
つば九郎も、”あの人”と一緒のつば九郎なのだと思うと、いま活動を休止させているヤクルト球団の苦悩をこちらも感じてしまいます。

ただ言えるのは、
ほんとうに、島野さんが築き上げたマスコットのプライドが、いまこうして各球団に広まって、ちゃんとマスコットもチームの一員として根付いていること。
そして、球場だけではなく、メディアにも登場してファンを喜ばせていること。
その“見えない貢献度”ははかり知れないものだと思います。

しかも、
もしドラフトで島野さんが巨人に指名されていなかったら…
島野さんは、肩の怪我もあってもっとひっそりと引退し、別の人生を辿っていたかもしれない。
そして、ドラフトで巨人に入れなかった星野仙一さんが、燃える男としてドラゴンズやタイガースの歴史を刻んでもいなかったかもしれない。
プロ野球の歴史が、一つのドラフトで変わっていたかもしれないというのもまた因縁か。

これからも、球団の顔として受け継がれていくマスコットキャラクター。
個人的には、つば九郎は、”あの姿”は見られないかもしれないが、ファンもそこは前向きに受け入れて、できれば継続してまた新しい歴史を刻んでくれることを祈りたいですね。
つば九郎のご担当だった”あの方”の、生前の薫陶を心から讃えたいです。
そして、そんなマスコットの歴史の中で、島野修さんという方がいたことも、このタイミングでぜひ知ってほしい。

今年はバファローズも、神戸の試合でオリックス・ブルーウェーブの復刻ユニフォームを着てプレーします。
阪神・淡路大震災から30年でもあるし、ほっともっとフィールドの老朽化が囁かれている中ですから、このタイミングで神戸での勇姿を前向きに期待したいところ。
その場にネッピーも帰ってくるかな?
そしたら、久しぶりにネッピーとも触れ合いたいと、今から楽しみにしています。

 

※イラスト・写真の転載・無断使用はご遠慮ください。使用をご希望の場合はK!SPO編集部までご連絡ください。


スポーツイラストレーターT.ANDOH

おもにスポーツを題材にしたイラストやデザインの創作で、スポーツ界の活性に寄与した活動を展開中。
プロ野球やプロバスケBリーグのチーム、選手にイラスト提供。
プロ野球選手には、伏見寅威選手(北海道日本ハムファイターズ)、中川圭太選手(オリックス・バファローズ)にロゴデザイン、イラスト提供中。
名古屋在住にも関わらず20年来のオリックスファンであり、その由来とイラストレーターの起源は神戸にある…!?

 

Twitter でK!SPOをフォローしよう!