スポーツイラストレーターT.ANDOHの「OUTSIDER’s ReCALL」(105)松崎賢人インタビュー、ストークスで過ごしたプロバスケ人生とこれからのこと(1)

2024年8月23日(イラスト・写真・文/T.ANDOH)

こんにちは!スポーツイラストレーターのT.ANDOHです。
今回はプロバスケBリーグ、昨シーズンをもって神戸ストークスを引退された松崎賢人選手の独占インタビューをお送りします。


(2024年8月17日、スポルテリアにて)

プロバスケの世界で13シーズンを戦った松崎選手。神戸ストークスの前身、兵庫ストークスの旗揚げ1期生にプロ選手として入団。
以降は移籍も経験し、そしてBリーグに発展していったバスケ界の激動の時代を走ってきました。
僕は松崎選手とは新人時代からのお付き合い。時代の風も受けながら駆け抜けたプロ人生を、ちょっと懐かしい話を中心に伺ってきました。

松崎賢人選手は、兵庫ストークスの1期生。

「トライアウトは2度受けました。でも当時は合格しなかったんです」
「国体メンバーで練習をしていたとき、チームメイトの紹介でストークスの練習にも行けることになって、その当時入団が内定していたガードの選手が諸事情で入団できなくなって、僕が入団できました」

ストークスのオリジナルメンバーには、同い年で兵庫国体のメンバーでもあった中村大輔選手がいて、その後、谷直樹選手、高松英二選手といったやはり同級生組が入団。
松崎選手はじつは一番最後の入団だったんですね。紆余曲折もあった入団ではありましたが、兵庫ストークスのメンバーとしてスタートしたものの、チームも波乱万丈の初年度となりました。

「プロというより、まだまだ部活生活の延長のような感覚でした」
「同級生ばかりですし、チームも手探り。練習は夜間だけだったし、遠征もみんなでバスで行ったり…という感じでしたし」
「だから、弱くて負けることに対しても、あまり“悔しい”と思うことはなかったんです。若かったからってこともあったんでしょうね」

当時、兵庫ストークスが所属したのが「JBL2」。Bリーグが発足する前の国内リーグの2部となります。実業団チーム主体のリーグでプロのクラブチームが戦うのは本当に大変でした。試合運営やチームの経営も、現在のBリーグでは比べものにならないほどの「手作り感」あふれる環境で。ストークスも当初は実業団の下位チームにも負けてしまうような状況でした。

「1年目は手探りなだけに遠慮していたところもあったかもしれません」
「2年目になって、勝たなあかんというプレッシャーは出てきました」

松崎選手も当初は実業団の強豪チームに揉まれながらもポイントガードとして奮闘。苦戦をしながらもシーズンを通してチームは健闘していきます。
現在は女子Wリーグの富士通レッドウェーブの監督で、育成手腕が評価されているBTテーブスHC(ヘッドコーチ)の戦術がフィットし、シーズン途中に加入したウィリアム・ナイト選手の活躍もまたチームの底上げにつながると勝ち星を重ねていき、初年度からセミファイナルに進出。翌年にはJBL2でリーグ優勝をし、当時のNBL(トップリーグ)昇格。
松崎選手は2年目にはストークスのエースPGとして活躍。MVPも獲得しました。バスケをして生活ができるという喜びを持って、プロ選手という意識がようやくついていった兵庫ストークス黎明期でした。

そして、NBL昇格の3年目。トップリーグで戦っていくうえで、松崎選手の意識も変わってきました。

「リーグのレベルが一気に上がったことで、勝てないことがプレッシャーになり、チームの雰囲気も落ち込むことがありました」

NBL昇格後は、現在のB1リーグにも繋がる強豪チーム、代表クラスの選手とも対戦するようになり、あらためてプロの壁に当たった時期でした。プロ選手として、チームの方針や与えられた環境に対して自分の意思を伝えることも学びつつ、自分達がプロとしてこの世界にいることの意義を感じた時期だったことでしょう。

「若いうちに兵庫から離れることも選択肢かなと思ったので、他チームとの交渉をこちらからも切り出そうと思っていたときに、熊本との交渉の機会があったんです」

プロとして成長するために、松崎選手の方から移籍という選択肢を選び、熊本ヴォルターズへ移籍したのでした。
フランチャイズプレイヤーという印象が強い松崎選手だったので、自ら移籍の道を模索したというのは個人的には意外でしたね。

「経験という意味も踏まえて、新たな環境でいろんな選手と交わることが新鮮でした。同い年の遥天翼選手(現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズから移籍)とプレーしたことも大きな影響を受けましたね」

NBLも当時は、実業団チームとプロチームが混在するリーグでした。プロ化を推進する流れのなか各地でプロチームが立ち上った時代、熊本ヴォルターズも発足間もないチームで、「田舎のクラブチーム」という感覚はストークスと似ていました。ヴォルターズも新規チームとしてリーグ戦は苦戦し成績も低迷しましたが、移籍したということで得た経験は大きかったようです。
さらにプロ選手という価値観にも大きな影響を与えたのが、2シーズン目に直面した熊本地震でした。

「故郷が相生だったので、阪神・淡路大震災でもまったく被害を受けてないし、東日本大震災の当時は大学で東京にいましたが、自分自身は影響を受けてないんですよね」
「でも、熊本では自宅も被害を受けたし、体育館までの道のりも瓦礫だらけで…。地元でもないし仕事できている感じがあったけど、小林慎太郎さんと高濱拓矢という地元出身の選手がいて、街の復興のために何かしたいという思いをチームメイトとしても応援するべき、と感じました」 

当時の熊本ヴォルターズには小林慎太郎選手という地元出身の選手がキャプテンとしてチームを牽引していました。小林選手は名門パナソニックトライアンズからの移籍。トップチームでの経験を買われ、地元チームで地域を盛り上げる存在として請われて入団してきた選手でした。
そんな小林慎太郎選手は、震災被害直後に「熊本ヴォルターズ選手会」を結成。選手が主体となって、地元での炊き出しから救援物資の呼びかけ、募金活動などを行います。

「ストークスにいたときは、自分が地元の選手という立場でした。地元だから、なんとなく自分のことを知っている人が応援してくれてきた感覚がありました」
 「それが熊本に来たことで、自分のことを知らないいろんな方に見にきていただいていて、地元じゃないけどその地域で育ててもらっている感覚ができました。しっかりと恩返しをして、地域のために働かないといけないと、初めてプロとしてこうしたこともやるべきなのかと思いましたね」

地元で起きた災害に対しての想いはもちろんのこと、地元のためにはたらくことが、地域で生きるプロスポーツ選手としての務めだということを、小林選手の行動からも気付かされました。

それは、バスケを知らない人にチームのことを教えることから始まったヴォルターズと熊本の人たちとのお付き合い。バスケを見てもらって、喜んでもらえることで、プロバスケ選手という自身を確立する必要を松崎選手も実感していました。

震災被害というキッカケではありましたが、地域に寄り添ってはたらくことでバスケ選手ということも知ってもらったことに喜びも感じた熊本時代。プロスポーツ選手という価値と意義をあらためて感じた松崎選手でした。

この翌シーズンからはいよいよプロバスケットボールBリーグが始まるという時期。「戻ってこないか」という渋谷社長の呼びかけもあり、熊本復興を祈念しつつ松崎選手は西宮に移転したストークスに3シーズンぶりに復帰します。

―つづくー

松崎賢人選手インタビュー後編はこちら

 

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スポーツイラストレーターT.ANDOH

おもにスポーツを題材にしたイラストやデザインの創作で、スポーツ界の活性に寄与した活動を展開中。

プロ野球やプロバスケBリーグのチーム、選手にイラスト提供。

プロ野球選手には、伏見寅威選手(北海道日本ハムファイターズ)、中川圭太選手(オリックス・バファローズ)にロゴデザイン、イラスト提供中。

名古屋在住にも関わらず20年来のオリックスファンであり、その由来とイラストレーターの起源は神戸にある…!?

 

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