南 郁夫の野球観察日記(165)全てはNOMOから始まった

2023年12月21日 (文/南 郁夫)

大谷翔平の大型契約でちょっとしたドジャース・ブームが沸き起こっている昨今。ユニやキャップも爆発的に売れているそうだが、ドジャーブルーを見るにつけ、私は「あの男」が巻き起こした30年近く前の特別な出来事を思い出す。

野茂英雄。1995年にドジャースとマイナー契約を交わしたこの男は、またたく間にNOMOとしてMLBにトルネード旋風を巻き起こし、当時の野球ファンの度肝を抜いた。日本人のMLB挑戦など夢のまた夢で、その制度すらなかった時代。球界の冷ややかな反応を振り切ってアメリカに渡った野茂がドジャースのユニに袖を通したその瞬間、歴史は変わったのである。

 

その後、数多くの日本のプロ野球選手がMLBに移籍して活躍したわけだが、全ては野茂のおかげ。なかば強行突破でアメリカに渡り、MLB通算123勝を挙げた彼の功績がなければ、現在のような日米間の移籍ルールも作られなかったろう。「道」を切り開いて日本のプロ野球の実力を知らしめたのは、野茂英雄。突破者への感謝は忘れられない。二十歳やそこらでMLB挑戦を口にできる現在の選手には、そりゃ当時の状況はわからないだろうけど。

1995年5月2日。眠い目をこすりながら衛星中継で見たサンフランシスコでのジャイアンツ戦に初登板した野茂の勇姿は、生涯忘れないだろう。MLBのマウンドに日本人がいる。野茂の1球1球に、バリー・ボンズから三振を奪うその姿に心臓が口から飛び出るほど興奮したものである。この年は1月に阪神・淡路大震災が起こり、被災者だった私にとってNOMOの活躍(とブルーウェーブの大躍進)がどれだけ救いになったかわからない。

誰に何を言われても絶対変えなかった、劇画チックな投球フォーム。自販機に投入された100円玉のような軌跡をたどるフォークボール。余計なパフォーマンスはない。来る日も来る日もただ「何もそこまで」に振りかぶり投げ続ける彼の姿は日米の野球ファンを魅了し、NOMOマニアを増殖していく。野茂の値打ちは大躍進したMLB最初の3年より、むしろ故障に苦しみ所属チームを転々と変えながらひたすら投げ続けてアップダウンをくり返した、その後の10年にあると私は思う。

いいときも悪いときも寡黙に、堂々と胸を張って真っ向から投げ込む彼の投球スタイルを当時の私は「動力」と表した。投球マシンのように投げ続けるタイトな実直さ。「打たれっぷり」のよさも彼の真骨頂で、ホームランを打たれたときの「あ、そうすか」という仏頂面を、私は愛した。ダメな日はダメ。それが投手という仕事。言い訳はしない。でも自分を信じ続け、なんとMLB通算323登板は揺るぎない「動力」の証である。

右肘がボロボロになるまで投げ続けた彼も、ついに2008年に引退する。そのときのコメントが「後悔はあります」。日米通算18年で201勝155敗(負け数の多い投手が私は好きだ)、MLBでノーヒットノーラン2回、ドジャース以外MLB全球団(29球団!)から勝利を挙げたほどの投手が、野球を辞めることに「後悔がある」のである。「動力」としてのNOMOの願いは「ただ野球を続けたい」だけ。野球人としてこれほど信用できる生き方があるだろうか。

現役引退後も黙々と野球界に貢献する野茂。なかでも「NOMOベースボールクラブ」の設立(設立は引退前の2003年)は、偉大なる業績である。「野球を志す若者に少しでも受け皿を作りたい」という趣旨で作られたこのチームは、以降の日本における独立リーグ設立の機運にもなり、最近では珍しくなくなってきた独立リーグからNPB入団の「道」をも作った。その先駆けも、野茂なのだ。「野球を続けたい」という願いを「野球を続けさせたい」という願いに変えて。

来年、ヤシの木を背景にドジャースタジアムで華やかに大谷翔平が躍動するのを、我々は見るだろう。そのとき、どうか思い出してほしい、1つ少ない番号を背負った偉大なる先人がいたことを。

 

 

南 郁夫 (野球観察者・ライター)
通りがかりの草野球から他人がやってるパワプロ画面まで。野球なら何でもじっと見てしまう、ベースボール遊民。あくまで現場観戦主義。心の住所は「がらがらのグリーンスタジアム神戸の二階席」ブログ「三者凡退日記」
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