南 郁夫の野球観察日記(100)
水島新司さんを偲んで

2022年1月22日 (文/南 郁夫)


偉大なる野球妄想漫画家・水島新司さんが亡くなった。

「ドカベン」「野球狂の詩」「あぶさん」の世界がリアルタイムで並行展開していた昭和世代の脳内では、水島漫画は現実の野球とほぼ完全に混濁してしまっている。記憶の中では、明訓高校や東京メッツはどう考えても実在していたとしか思えないのである。それほどのリアリティと熱量、野球愛が全盛期の水島漫画にはたっぷり詰め込められており、つまらない現実の試合をテレビで見るくらいなら水島漫画を読んでいる方がよほど面白かった、そんな時代があったのである。

各シリーズの豊富なキャラクター、緻密な展開、野球を奥深く知らないと描けないデティール、後年それらのキャラを成長させてフュージョンさせていく展開…考えてみれば、水島新司は「ひとりマーベル」ではないか!地球なんか救わないけど、野球を救ってきたのである。当時の野球人気をかなりの部分で支えてきたという事実は、関係者も含めて誰もが認めざるを得ないだろう。そこには濃密に昭和のメンタリティが漂ってはいるのだが…。



あまりにも膨大な作品群の中で「この1編!」などと具体的に挙げるのは難しいが、特に私の心の中に残っているのは里中満智子とのコラボ「ウォッス10番」である。

「天才投手の陰に隠れて黙々と努力を続けた男がたった一つのチャンスを掴んで甲子園に行く!その背後には黙って支え続けた美少女の存在が…」という、令和の世では炎上必至のストーリー。でも昭和の高校生(男子校・男兄弟のみ)だった私は里中満智子が描くところのふわふわしたタッチの「夕ちゃん」に目が奪われ、こんな女の子に好きになってもらうには主人公・富樫平八のように寡黙に爽やかに夢を追う男じゃないとあかんのかなあ、とため息をついていたのだ。

もちろん、自分はそんなんじゃないし、女性はそんなんじゃなかったし…ということを年齢を経ながらどんどん思い知っていくのだが。

そう、これは主人公の設定(新潟の貧乏な魚屋の倅)がそのまま自分である水島新司の「ファンタジー」である。現実の水島新司は野球をあきらめて魚屋を継ごうとしたわけで、その後も続いた「10番」シリーズは作者のパラレルの夢物語として、異色の存在となっているのだ。

夢物語といっても、他の水島作品の主役と同じく、富樫はいわゆるヒーローではない。あくまで夢をあきらめきれない平凡な野球バカである。それこそが水島漫画の美学なのだ。「そんな男を無条件で支える可憐な女性の存在がいる」という部分こそがファンタジーなのであるが、苦手と言われていた恋愛描写(というか女性描写:作者の描く女性はほぼ同じ顔っていうか、里中君が髪を伸ばしただけやん)を里中満智子に任せるという画期的な方法で払拭しようとした、まさに意欲作なのだ。

後年、あだち充の「タッチ」を「野球を恋愛の小道具として使っている」と批判して周囲を唖然とさせた水島新司にしてみれば、なるほど「10番」シリーズの展開(東京メッツ入りするも故郷に錦を飾ったあとは二軍暮らしで腱鞘炎で投手から打者転向…)や細かい野球の描きこみは野球愛に満ちているとは、言える。しかしながら「愛する人の進みたい道を邪魔しないのが、愛」と夕子に語らせるあたりは、今読むと逆に「愛を野球の小道具として使っているやないか」と思う部分もあるのだが、まあそこは昭和の男の夢としてむしろ楽しむべきところではあろう。

とにかく今回、水島漫画を再読してみて、まんまと昭和野球のノスタルジーに浸って引き込まれてしまった。そして、水島漫画の野球擬音(バシイ、ズドォー、ズバァ、ピシィなどなど)がいまだに自分が野球観戦するときの脳内標準擬音になっていることを確認し、その影響はすごいなあと思うのである。そして、自分がたぶん岩田鉄五郎より上の年齢になってしまっていることに呆然とするのである。

ああ、「ドカベン」「野球狂の詩」「あぶさん」全巻が壁に並んでる純喫茶で1週間くらい過ごしたい。誰かそんな店、知りませんか?

*ネット上に「ドカベンフォント」で文字を作れるサイトがあり、いろいろ作っていると飽きない。とてもお見せできないものをいろいろ作ったが、差し障りのないところで、こんなのどうでしょう?






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南 郁夫 (野球観察者・ライター)
通りがかりの草野球から他人がやってるパワプロ画面まで。野球なら何でもじっと見てしまう、ベースボール遊民。あくまで現場観戦主義。心の住所は「がらがらのグリーンスタジアム神戸の二階席」





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